提供される遊び場
世の中には、実際に脚本を書く能力、あるいはディレクションなどをする能力があるかないかに関わらず「俺ならもっと上手にガンダムを創れる」などと思っている人は結構いるのではないだろうか?
政治然り、大相撲然り、プロ野球の采配然り。
これは、実は過信でも何でもなくて、その対象に関する「思い入れ」を表現しているのだと思われる。
そう思っている人なりのロジックというものがあって、自分なりの政治論、プロ野球論、ガンダム論などが導き出されるのだろう。
創作物において、その作品自体の作品性のみならず、その作品の背景世界にユーザ惹かれるというのはよくある話だ。
ヤマトになくてガンダムにあったもの、といえばわかりやすいだろうか?
作品において設定は二の次だ。面白い展開をするなら、設定なんて無視しても構わない、という風潮があるのもわかるが、その手法はおそらく、その作品内ですべてが完結するときのみの方便だと思われる。
鼻の利くユーザは、その作品の向こうに「遊び場」があるのを嗅ぎつけると、いちはやく反応する。
「宇宙世紀」という「遊び場」ができたのは偶然かも知れないが、その遊び場で遊んでいる人は、今や無数だ。
ぶっちゃけた話をすると提供側は「遊び場」を壊すことでしか先へ進めないこともある。
今までなかった新しい設定を「増築」したり、今まであった設定を「実はね、本当はこうだったんだよ」的新解釈で「改装」したり……そういうことでしか進めないこともある。
感動的に最終回を迎えバラバラになったメンバたちが、人気が昂じて晴れて続編実現となった際に「ありえないはずだった再結集」をしてしまう──みたいな『踊る大捜査線』的前進は、喜ばれはするものの、よくよく考えてみれば根幹作品を「台無し」にしてしまっている諸刃の剣、といえるだろう。
しかし、受け手側即ちファンは「遊び場」を大切にする。
そして、ユーザたちは、その設定を共通のルールとして、公共の場である「遊び場」で各々が独創的な遊びを始める。
綻びたところを進んで補強、補修し、より住み良い遊び場として完成させていくと同時に、お互いに「遊び場」をシェアしていく。
受け手たちが、この「遊び」を始めてくれることは、送り手としての「勝利」であると解釈して差し支えないと思われる。ただ、仮令その世界を構築した身であっても、おいそれと「ノアの方舟」的暴挙はできなくなってしまうけれど……。
多少話が逸れたが、ユーザレベルでの「思い入れ」を誘発することは、世代を超えるコンテンツを作る上で重要なことで、故に「俺ならもっと上手にガンダムを創れる」という「ビール片手にナイタ見ながら親父が語るプロ野球論」的発想は、決して思い上がりなんかではないと思えるのだ。
瓢箪から駒が出る、というわけではないが、そこから次代の担い手が出てくる可能性だって十分にあるだろう。
却説。
『仮面ライダー響鬼』は、これまでの視聴者のリクエストが実を結んだのか、はたまた最初から予定のうちだったのかはわからないが、今回の放映で、新体制に入ってから失われていたいくつかの要素が復活した。
山岳部や森林での撮影、ディスクアニマルによる魔化魍探索、一部ではあるが書き文字による演出、などなど。
そのおかげで、決定的に変わってしまったものが、かえって浮き彫りになってしまい、一抹の淋しさを感じた。
おそらくこれが現体制でできる最大の譲歩なのだろうな。
そうは思うが、壊れてしまったものが修繕されたわけではない。
むしろ取り返しがつかないくらい壊れてしまったんだなぁ……、と実感した。
『仮面ライダー響鬼』にとって不幸だったのは、製作を引き継いだのが、自分なりの「響鬼論」を持っている方々ではなかった、ということだろう。
これまでの作品内で構築された「遊び場」を壊さず、いかに住みよく改装・増築するか。「俺ならもっと上手に響鬼を創れる」……そこを考える人たちではなかったのだ。
彼らが持っていたのは、どちらかといえば「仮面ライダー論」だったのだろう。
「俺ならもっと上手に仮面ライダーを創れる」「俺ならもっと上手に響鬼を仮面ライダーにできる」、というスタンスの元、土台から「改築」しているとでもいえばいいのか。
『響鬼』は『仮面ライダー』だが、『仮面ライダー』は『響鬼』とは限らない。
時間がなかったのか、上の指示だったのかは知りようもないが、シリーズの中で『響鬼』が『響鬼』たりえた部分の特徴を、壊すことでしか独自の仮面ライダー論を展開させられなかったようだ。
その方が面白くなる、という善意で動いていたのかもしれないが、前半で提示されていたものが、次々と無視されていくのを見ていると、正直、淋しくてたまらなくなる。
もちろん、『響鬼』自体がTV番組なのだから、放映を重ねる中で、いろいろとマイナーチェンジを繰り返してはいた。
だが、その変更があるたびに、以前提示されたものと齟齬が出ないよう、極力努力をしていたように思う。
現在はそのあたりのこだわりを、諦めてしまっているように見える。
あるいは自分たちの方法論で構築されたものではないため再現できないのかも知れない。再現できないがゆえに、自分たちの文法での最善をつくしている、のだろう。
にしても非常に惜しい。
『仮面ライダー響鬼』という遊び場は、1年で使い捨てるものではなく、長年愛され、後々まで残る可能性があった代物だったのに。
今は、無残に掘り起こされた箱庭を見つつ、どう転がっていくのかを見守ることしかできない。
ファンには辛い時期が続きそうである。
他に方法はなかったのだろうか……。
追記:
設定的齟齬、キャラ造形的齟齬、展開の違和感以外で論じる点があるとするなら、「神主様!」という巫女さんの叫びと、医者の「長年猛士の……」という自己紹介ですかね。