懺悔

あれから半年が経過したし、結果としては何事もなく、特に問題は起きなかったので、反省の意味もかねて書き記しておこうと思う。

僕は煙草を吸わない。

学生の頃、学生会館の学科のボックスがあまりに煙かったので、耐性をつけるため、吸えるようになるまで吸ってたことがあったけど、その程度だ。日常生活に煙草はない。

同様に相方も煙草を吸わない。

僕の家族も煙草は吸わなかった。唯一、上の弟だけが、就職して営業的な仕事をするようになって吸うようになったみたいだが、家族の前では吸わない。

演劇関係で10年以上一緒に活動しているSky Theater PROJECTのコアスタッフにも喫煙者はいなかったし、EDEN'S NOTESの仕事仲間にも喫煙者はいない。

もちろん芝居関係や仕事関係で煙草を吸う人がいないわけではないが(いや、むしろ沢山いるはず)、やはり常に一緒に行動する面々に喫煙者が極端に少ないのは確かだ。

これが時代の流れなのか、それとも偶然そう云う面子が揃っただけなのかはわからない。

が、僕の生活の中で煙草というものの存在に触れることは稀で、ともすると煙草や喫煙者という存在そのものを忘れがちになってしまう。

勿論、道を歩いている時に、路上喫煙が禁止されてる場所で吸ってる人を見かけてムッとする、みたいなシチュエーション(ここ数年は妊婦と一緒だったり赤子と一緒だったりするので猶更です)などがあれば、意識の上に煙草は浮上してくるのだが、実生活の中で、ホント、忘れていることが多い。

別に大したことではないように思えるが、実は、いくつか弊害もある。

まず第一に、喫煙者に対する配慮がなくなること。

配慮がない、といっても迫害するとか、そういうあれではなくて、本当に忘れてるのだ。

だから、僕の発案で10人くらいで、テーマパークだとか、あるいは鎌倉散策だとか、そういう感じでどこかに出掛けた時など、面子の中に喫煙者がいたとしても、うっかり自分のペースでガンガン移動してしまって「ピットイン」の必要性を忘れてしまうことがあったりもする。

定期的に一服の時間を作らないと、と心のどこかで思ってても、自分が吸わないものだから、つい忘れてしまう。

そして、もうひとつ。

煙草の存在を忘れてしまってたせいで、結構、クリティカルなミスをしてしまった。

これが本題。

子育てをする上で、生活の中に煙草がない、というのは理想的なことのはずだ。

副流煙もなければ、煙草の葉やフィルタの誤飲も、火傷や火事の心配もない。

そのはずだった。

時は半年前、お正月に遡る。

1月1日は、母方の親戚が祖母の家に集まるのが恒例になっている。

母が6人姉弟の一人であるせいもあり、親戚は多く、祖母ももはや曾孫が20人以上いるために誰が誰やらという感じではあるが、入れ代わり立ち代わり人が来て、そんなに広くないはずの祖母の家にMAXで40人以上が滞在している。

いつも僕らは年末の帰省ラッシュを避け、東京で年を越し、年賀状を確認してから清水に帰省している。

宴会の序盤には間に合うはずだったが、強風の影響で東海道線が一時間以上遅れ、着いた頃にはもう宴会もピークを過ぎていた。

ぼちぼち人もはけはじめ、三つ並べた座卓には、僕らと従兄夫婦しか座っていない状態。

先程まで隣で飲んだりしてた叔父も、台所の方へ移動して、兄弟の誰かと話している。

その時、僕ら夫婦は、従兄の奥さんと子育ての話をしていた。

従兄は僕より一歳年上で年齢はそんなに変わらないのだが、上のお子さんはすでに中学で、奥さんは三人の男兄弟を育て上げた強者なのだ。

だから、男の子の育てる上でのいろんなことを聞いていた。

その間、当時一歳八ヶ月だった息子はといえば、あっちに行ったり、こっちに行ったり。

ハトコも多いし、いろんな大人の目もあったので、僕らもすっかり油断していたのだ。

話を聞いていたら、背後で急に息子の泣き声が響いた。

なにかと思って振り返ったら、すでに誰も座していない隣の座卓の上に、灰皿があったのだ。

先程まで叔父が吸っていたのだ、煙草を。

息子は煙草を見たことがない。灰皿が何かなんて知らない(いや、義父が吸うので、相方の実家で見たことがあるかもしれないが、ちゃんと見たことはないだろう)。

先程まで、料理の皿がずらりと並んでた座卓の上に、なぜかひとつだけ下げられずに残ってる皿がある。

だから、その中に入ってたものを、多分、手に取って口に入れたのだ。

血の気が引いた。

慌てて息子を抱えて水道までかけていって口の中を洗浄した。

でも、灰皿の中に何が入ってたのか、僕は知らない。

灰皿があること自体、気付いてなかったし、灰皿の中身なんて見てない。

吸殻が何本あったのか。それはフィルタだけなのか、吸いかけのものもあったのか。

減っているものがあるのかないのか。

葉っぱを食べてないか、フィルタを飲み込んでないか……。

わからない。

息子は泣いている。僕らの反応にビックリしたのもあるだろう。

1月1日の夜だ。医療機関は救急ならやってるかもしれないけど、どのくらい緊急性のあるものなのかわからない。

自分の実家なら風呂場に飛び込んでシャワーで徹底的に口内を洗浄するのだが、祖母の家じゃちゃんと洗浄できたかもわからない。

席を立つなら灰皿を置きっぱなしにしないでくれよ、と叔父を責めることもできたが、それどころじゃない。

……結論から言えば、結局、異変はなかった。

後日、便でフィルタが出るようなこともなかったし、息子の体調に異変が出ることもなかった。

灰皿にある灰を舐めて、苦くてびっくりして泣いたのだろう、という結論に落ち着いた。

だが、その後も気が気じゃなかったのは言うまでもない。

何事もなかったから万事OKとか、そういう問題じゃない。

気にしてなきゃいけなかったのだ。

普段、煙草を吸ってないせいで、煙草という存在が、認識からすっぽり抜け落ちていた。

行きつけの床屋のオーナさんが以前、「胸ポケットに煙草を入れてる状態で居眠りしたら、子供が……」みたいな話をしてくれたが、どこか他人事のように聞いていた。

飲み会など、普段、煙草が吸いそうな場所に行くのを子供が生まれてからほとんど断ってたから、そういう配慮すら忘れていた。

周囲に吸っている人がいれば、もうちょっと気にしてたかもしれないが、吸う人がいない、という状況も落とし穴があるということだ。

自分らが吸わないから、問題ない……と思い込んでいたのは、単なる幻想だったということだ。

もう、こんな失敗はしない。

大いに反省するとともに、そう心に誓った2014年のスタートだった。

忘れないために半年後の今、自戒の念を込めて、ここに記しておこうと思う。

皆さんも、お気を付けください。