目薬αで殺菌します

昨日、何気なく本屋に寄ったら、森博嗣目薬αで殺菌します』が出ていた。

このタイミングでギリシャ文字シリーズが出るのか。ちょっと嬉しくなる。

×シリーズにあった続刊予定が『カクレカラクリ』など既存作のノベルズ化だったし、氏のサイトなども普段は見ていないので、知らなかったのだ。

本屋に行くとそういう驚きがあるから、嬉しい。

amazonも便利だけどね。

久々にサイトを見たところ、氏はあと何作書いて世に出すかまでを決めているようだ。

まだ手をつけてない(読んでいない、という意味ね)作品も多いので、そこから先、新作が読めなくなるということに対する不満はない。

そういえば、かつて「もう手塚治虫の新作は読めないのか」と思い『火の鳥 太陽編』に手をつけるのをやめたのを覚えている。あれからかなり経つが、『太陽編』はいまだに読んでいない。

他にも手塚治虫の読んでいないメジャな作品は山のようにあるというのに、である。

別にファンでもないのに。

これから先、読むことがあるだろうか? いずれは読もうと思っている。でも、不慮の事故とかで僕が死んでしまったら、読めないよね。

話は変わるが、今度打つ公演は1990年が舞台だ。

初演のときは「近くて遠い」「今のようで今じゃない」90年代、をコンセプトにしていた。

しかし、あれから5年が経過し、1990年が13年前ではなく18年前になってしまった。

90年代中盤のインターネットの発祥と携帯電話の爆発的普及により、時代の断層があるというのは当時(5年前)も今も変わってないが、1990年というものに対するアプローチがかなり違うのに気付く。

20代中盤以上の役者と、20代序盤の役者とで、認識が違いすぎるのだ。

すでに90年代を舞台にした創作が時代劇として成立するのかも知れない。

今回、その辺りがどのような評価を受けるのか、今からちょっと楽しみである。

そういえば氏のデビュー作『すべてがFになる』の舞台となっているのは1994年(作中では語られてないが、事実上の処女作である次作『冷たい密室と博士たち』で1995年と特定できる)だ。

もし映像化されることがあるとしたなら、無理に「現在」にしない方がいいだろう。

現在なんてすぐに風化するものだし。