終わる旅

仮面ライダーディケイド』第19話「終わる旅」を観終えて、複雑な気分のままテレビを消した。

ん〜、別にいいんだけどさ。個人的にはよくわからない話だったなぁ、と思って。

「鬼」とは何なのか。

魔化魍」とは何なのか。

そして、「鍛える」とは何なのか。

このあたりがぼんやりとしたまま、ディケイドの響鬼編が終わってしまった気がする。

漢字演出や、最後の大合奏を『響鬼』へのリスペクトとする向きもあるようだが、個人的には、この2話からは『仮面ライダー響鬼』のエッセンスはあまり感じられなかった。

「まあ、『ディケイド』だし」で済む話なのだが、逆に『ディケイド』であれば、もうちょい無難な話で済ませた方がいいような気もしたなぁ。

いろいろ言いたいことはあるけど、なるべく長くなりすぎないように、かいつまんで書いてみよう。

「己を鍛え続け、相手を倒そうとする気持ちが強くなりすぎると、鬼に心を奪われてしまう」から「鍛えるのを辞めてしまった」というのが、多分、一番の違和感だったと思うんだよね。

日本語としては正しいんだけど、『仮面ライダー響鬼』で再三言ってた「鍛える」って、そういうことじゃないでしょ。

これだと、フィジカルな意味での「鍛える」だけであって、メンタル面のことが触れられてない。

だからこそ、響鬼編の作中で「正しい心で」と繰り返していたわけだけど、やっぱりその齟齬が一番気になったなぁ。

心も身体も「鍛えて」いないと「鬼」になることはできない、と思って観ていたからこそ、路線変更後の『響鬼』にイキナリ登場した「朱鬼」の存在が上手く嚥下できなかったわけで。

「鬼」が「魔化魍」になる、という設定(これは『七人の戦鬼』での「歌舞鬼」にも言えることだが)もよく理解できなかったなぁ。

根っこの違うものだと思っていたからね。

あと、伊東ヒビキが鬼の力に溺れて、制御できなくなったため牛鬼化したはずなのに、「牛鬼」という存在に憑依されているかのような演出だったのも、どっちつかずな感が残ったかな。

後者のような演出をすると、音で清めればヒビキは助かりそうに見えてしまうんだよね。

ヒビキが海東に「響鬼の音叉だ」と言って託したのもよくわからなかった。

鬼の変身は、「555のベルト」とは違うのでは? と思ってしまったからだ。

実際、アキラは天鬼であって威吹鬼ではないし、トドロキも斬鬼ではなくあくまで轟鬼だ。

でも、アスムは「響鬼」になった。本編では、戸田山も「斬鬼」の名を襲名する予定であったが、それとは違う。アスムは「仮面ライダー響鬼」になってしまったのだ。

「アスムが鬼になる」と「アスムが響鬼になる」では、まったく意味が変わってきてしまう。

(「明日夢響鬼になる」はすでに『明日夢変身!』でやっちゃってますしね)

まあ、アスムが鬼となって、魔化魍化した師であるヒビキを倒すことで「魂を継承する」(なんか民俗学っぽいですね)というプロットはなかなかだ。

感動的な物語になりそうな要素をたくさん含んでいるし、着想としては悪くない。

でも、牛鬼にならないよう「鬼」になることを抑制していたヒビキを無理矢理変化させ、アスムに「殺させる」という状況を意図的に作り出す、という図式がはたして「魂の継承」となるのかどうか。

どうにもプロットが先行してしまって、うまく脚本に落とし込めなかった感が残る。

牛鬼の話だけでは落とせなかったので、最後の大合奏のためだけにバケガニを出しました、的な構成もなんか喉に引っかかったしね。

台詞自体もパーツとパーツが組み合ってないような気が観ていてしたので、個人的にはちょっと残念でした。

……あ、いろいろ書いてたらなんか文句ばっかりの文章っぽくなってしまいましたね。

別に『ディケイド』は来週も楽しみですよ。

思ったことを文章化してみて、なんだかんだで「響鬼が好きだったんだなぁ」と思った次第。

来週はオーガが出るっぽいですね。

オーガ好きだから、楽しみです。