テンプレート
「創作」というものも歴史が長いせいか、慣例化してしまっている表現や展開などをよく見かける。
プロップの「昔話の形態学」を引き合いに出すわけじゃないが、物語そのもの、あるいは作中の描写に、ある程度のテンプレートが存在してしまっているというのは否定のしようがない事実だと思う。
それを自覚せずに使用してしまっている人もいるが、創作とはある意味、この忌々しいテンプレートとの戦いだ、と言うこともできる。
そのテンプレートを使用すること自体が思考停止だとは必ずしも言えない。
しかし、その存在の是非自体は置いておくとしても、それらの中に好き嫌いが出てくるということはよくあることだと思う。
好きなら、テンプレートと知りつつあえて使うだろうし、嫌いならば何が何でも使わないだろう。
それは、感覚的に出る好き嫌いというよりは、創作に対するアプローチや方法論から出るものだと思うので、根は結構深い。
しかし、クライアントからのオーダというものは、知ってか知らずかはわからないが、この手の慣例表現のままだったりすることが割とあるから恐ろしい。
書き手の心、クライアント知らず。
以前、ヨモ君のサイトの「それをやっちゃぁおしめーよ。」が「ARTIFACT─人工事実─」で紹介されたことがあった。
そこで紹介された時は、フィクションでよく見かける「実際にはありえないこと」 としてだったが、このコーナは結局のところ現代の物語や表現に内在するテンプレートに対する警戒の記事なのだ。
もちろん、僕にも嫌いで、なおかつできることなら使いたくない慣例表現や慣例展開がある。
それらを一度にリストアップすることはできないが、そういうのは観客として触れていて、おや、と思うことが多い代物だ。
例えば、ある物語の作中に「運命」という言葉が出たとする。
その「運命」はネガティブな未来を示していることが多い。
登場人物の一人が「これは運命なんだ」と諦めの言葉を発する。あるいは、予言者が「こうなることは運命だったのだよ」などと諭そうとする。
すると主人公が「運命は自分で切り開くものだ」と熱弁し、状況を打破する。
最後は、未来に希望を持たせてあやふやに終わる。
これは僕の考える運命論とは全く違う理論に則って進行しているお話のようなので、わりと理解に苦しむパターンの慣例展開だ。だから、こういう話を自ら進んで書くことは難しい。
もちろんオーダがあれば書くが、許されるならこれと同じような展開を見せつつも、自分が納得できるようなロジックを展開させることになるだろう。
傍目にはわからないような工夫を挿入するに留まるかもしれないけれど、そういった無駄な足掻きが創作には必要なこともあるのだ。
あと、展開ではないのだが、個人的に「ひょんなことから」という表現があまり好きではない。
いや、本当にひょんなことが契機で始まったストーリィなら構わないのだが、世に溢れている「ひょんなことから」というあらすじは、殆どが「ひょんなこと」ではないといっていい。なので、辞書の「ひょんなことから」の項目に「些細な契機から」という意味を付け足して欲しいくらいだ。
そんなこともあって、自分でもあらすじで「ひょんなことから」と書かれないように導入を工夫してみたりして……。これも無駄な足掻きの一種。
もちろん、その努力の如何に関わらず、あらすじに「ひょんなことから」と書かれてしまうことは多い。
そんなときはどうするかって?
こっそり凹むに決まってるじゃないか。