怒りという原動力

映画の話からはじまるけど、言葉の話。

あと風潮の話。

先日、友人の女の子に「『ゲド戦記』(映画のこと)はどうでした?」と問われたので、「退屈な映画だったよ」と評したら、一緒に映画を観にいったA君に咎められた。

僕の言った言葉が一般論のように聞こえたのかも知れない。あくまで個人的見解だ。

そのA君にしてみても『嫌われ松子の一生』(もちろん映画版の話)を「映像に品がない」と評しているわけで、立場的には変わらないはずなのだが、捉えられ方が違うようだ。

違いとしては、現在、映画版『ゲド戦記』の酷評があちこちで見られる(らしい)という点があげられる。

いちいち酷評を見て回るほど暇じゃないので、ちゃんと確認してはいないのだが、どうもそうらしいのだ。

酷評(に限らないのだが)が溢れかえってしまうと、その基礎知識がある聞き手に感想が言いづらくなってしまう。

僕がかの作品を「退屈だ」と評したのは、主に脚本の構成や台詞回しに対してで、僕という人間を知っている人ならピンとくるかもしれないが、芝居でも映画でも、僕が作品を評価するウエイトは八割方そこに集約される。

そこに僕の好みや、ポリシィなどが加わって、そういう評価になったにすぎない。それはたまたまであって、世に溢れる批評とはまるで関係がない。

逆にそんなに酷評される映画か、と言われれば、首を傾げざるを得ない。少なくとも(言葉は悪いが)クソ映画ではなかった。

普通に観られた。

では、なぜそんなに酷評されるのか……。

作品云々の話でなく、最近、よく思うのは「怒り」だ。

行動の起点に「怒り」があるように思う。

思ったような満足感が得られなかった時、あるいは納得いかないことがあったとき、今の風潮は人に「怒り」を放出することを強要する。

そして怒りは鋭利な言葉になってネットにあふれる。

極端にいえば、「つまらなかった。面白くなかった」ではなく、「つまらない。時間と金を無駄にした。こんなものを作る人の気が知れない。これを作った人間は正直、創作にたずさわる価値がない。消えて欲しい」となる。

10年程前のインターネットはまだ大衆性という意味では成熟しておらず、だから逆に行儀のよさが求められる場所であった。

しかし、今は普及しすぎたせいで、誰も彼もが思ったことを発信できる場所になってしまったように思う。

さらに、最近の「叩いていいと大衆が判断したものは、右にならえで、一斉に叩く」という風潮がある。

これも「誰も彼もが思ったことを発信できる世の中」になったことと無関係ではない。

未成年に飲酒をすすめた芸能人、ワールドカップ敗北時に客席で笑っていた客、デビュー作を飾った映画監督、ボクシングの納得行かない判定……。

誰も彼もが発言したい。

しかも、友人知人ではなく、できれば「本人」に。言ってやりたい。攻撃したい。

そう。何故か攻撃対象が、個人へ個人へとピンポイントに収束していくのが、今の特徴でもあるように思う。

「大衆やマスメディアが個人を一斉に攻撃してもOK」みたいな風潮になりつつあるのが、正直、不安だ。

たまに言うことだけれど、ペンは剣よりも強い。多分、銃よりも。

言葉を職業にしているだけに、この辺りはなるべく慎重にしているつもりだ。しかし、最近、人は言葉に研ぎ石をあてる方向にないだろうか……?

いろいろ言いたいことは拡散しているけれど、今回のお話は「酷評されているものの評価はしづらい」「自分の目で判断しよう」って結論にしておこうと思う。

「個人的には退屈な作品だとは思うけど、世でいわれているほどひどい映画じゃないと思うよ」なんて感想としては微妙だもんね。